当山は人皇四十五代聖武天皇の天平二年(730年)に
行基菩薩によって開かれました。
本尊の如意輪観世音菩薩は聖武天皇より賜った香木を、
行基自ら刻まれたと伝えられております。
八幡宮を鎮守とし、諸堂を建立し、七堂伽藍の霊地、
勅願所として大いに栄えました。
幾多の盛衰を経て、白河天皇の御代(1100年頃)
奈良東大寺より当時随一の碩学、
叡尊(興正菩薩)が来住して一山の復興に努力され、
七堂伽藍を完備し七十余の僧坊が
甍を連ね、播州の学山として大いに栄え、
諸方より修学の僧徒が集まりました。
後嵯峨天皇・後深草天皇の篤い帰依を受け、
寛元三年と建長六年に勅願寺として定められました。
天正七年(1579年)羽柴秀吉の三木城攻略の際、
当山の僧兵らも別所方に加わったため、
秀吉の軍勢によって焼き討ちにあい全山焼失し、
広大な荘園、領地を没収されました。
徳川三代将軍家光公により慶安元年(1648年)
本堂・阿弥陀堂等再建の御朱印を賜り、
更に天下泰平萬民豊楽の修正会(追儺式)を
命ぜられ復興も著しかった。
明治初年二十四か寺の塔頭寺院が存在しましたが、廃仏毀釈により大半の寺院が焼失し、
現在は二か寺のみとなっております。諸方より修学の僧徒が集まりました。